言語理解とイメージ理解

昨今、英語教育が話題になるが、
国際化に伴い、早くから学んだほうがよいとか、
日本語をきちんと学んでからでないと意味がないとか、
いろいろ言われているが、それ以前の話をしたい。

そもそも言葉とはなんだろうか。
その一つの側面に、
自分の中にある「概念」「イメージ」を他人と共有するツール
というのがあるだろう。
最も根本的なものだと私は思っている。

自分の中にある「もの」「こと」「性質」といったもののイメージが、言葉を介して他人に共有化されて、「概念」化していくものだとも思う。
新しい言葉ができるということは、新しい「概念」の共有化が計られるということなのだろう。

「概念」「イメージ」があってこその「言葉」なのだろう。

「概念」「イメージ」と「言葉」は、同一のものだろうか。
同じ「概念」「イメージ」でも、国、地域、職業など、いろいろなコミュニティの違いで、別々の言い回しをし、別々の「言葉」を使う。

違う文化をもってすれば、もっと細分化された表現も行われたりすることもある。
これは、どちらが優れているという問題ではなく、
何が身近にあり、何に興味があるかの違いなのだろう。

逆もまた然り、同じ「言葉」でも違う「概念」という場合もある。
同音異義語もそうであるが、元々同じ「概念」同じ「言葉」であったものが、概念が細分化されていったとき、別々のコミュニティで、別々の細分化された「概念」で、元々の同じ「言葉」を使ったりする。
専門性が高くなればなるほど、違う専門とのギャップが生まれてくるのであろう。

はたして、「言葉」を理解したからと言って、本当に「理解した」と言って良いのだろうか。
小さいコミュニティ、固定化したコミュニティの中にいる間は、それで良いかもしれない。

既存の概念を言葉でINPUTし、言語理解し、OUTPUTも言葉で行う。
これは、最もレスポンス性か高いと言って良いだろう。

たが、こればかりをやっていると、まだ言語化されていない概念を理解するのが難しくなってしまう。
「概念」「イメージ」の理解を直接していくことによって、新しい「概念」「イメージ」を受け入れ安い常態になっていく。

そして、自分の知らない新しい文化に接したとき、それを否定せず、受け入れていける力がつけられていくことだろう。